ちなみに、「晤語(ごご)」とは「相対してうちとけて語ること」という意味です。

2019年2月17日日曜日

2月の「晤語の哲学」のご報告


 2月の「晤語の哲学」は、参加者7名、主催者2名の9名での開催でした。今回のテーマは「甘えって何?」。今月も対話の一端を紹介しましょう。
 前半で「甘え」という言葉についてのいろいろなイメージについて話し合ううち、「甘え」というものは、「受け入れられたり–受け入れられなかったり」、あるいは「許されたり–許されなかったり」するものだという、「甘え」の一般的性質が浮かび上がってきました。そこで、「甘える側」と「甘えを受け入れる/入れない側(甘えの受け皿)」とを分けて考えてみることにしました。
 「甘えの受け皿」については、それを四つに分けて考える案が出されました。世間(社会)、友人(同志)、家族(特に母)、そして自分自身です。
 他方、「甘える側」については、甘えることで何を(実現)しようとしているのか、と考えてみました。それに対しては(特に家族や身内に対する甘えが念頭にあったと思いますが)、「根本的欲求を満たしている」、「エネルギー(力)を得ている」、「帰るべき場に立ち戻っている」などの意見が出されました。人が甘えられる場というのは、自分を肯定してもらえる場、無条件に受け入れてもらえる場だろうということから、人には、そうした場に身を置くことで、安心できたり、生きる力を得られたりするのではないか、と考えました。
 次に考えてみたのは、「甘えの受け皿」と「甘える側」の関係です。「甘え」に「情緒的甘え」と「物質的甘え」を区別する案が出され(両者は厳密には分けられない、という案も出ましたが)、それらの甘えが、どんな条件で受け入れられ、また、受け入れられないのか、あるいは、これらの「甘え」と、「自立」や「責任」の関係はどうなっているのか、などについて意見が交わされました。
 また、最近の社会は、教育からビジネスに至るまで、いたるところで「かゆいところに手が届く」サービスが尽くされていて、それがかえって、受け手を「甘え」させることにつながっている、という意見もありました。それが当たり前になると、どんな場合でも、子供が勉強できないのは先生のせい、客の不満は売り手のせい、ということになってしまいます。実際、最近の社会では、そんな状況も見られるような・・・。
 要は、「甘え」の程度、頃合い、ということなのでしょうが、実は、その微妙なバランスがとても難しいのでしょうね。

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