ちなみに、「晤語(ごご)」とは「相対してうちとけて語ること」という意味です。

2016年10月29日土曜日

11月のテーマを決めました。

お待たせしました! 次回の哲学カフェ「晤語の哲学」のテーマを決定しました。
日時も含めて、改めてご案内いたします。

日時:11月6日(日) 14時~16時
場所:島根大学 学生市民交流ハウス FLAT
   (島根大学松江キャンパス正門進んで左手)
テーマ:「〈老い〉って何?」
参加費:無料
ファシリテータ:川瀬雅也(島根大学教育学部)
参加方法:当日、現地に集合。申し込み不要。
問い合せ先:0852-32-6284(直通) 島根大学教育学部 川瀬研究室
        kawase@edu.shimane-u.ac.jp

テーマについて:
 生物は、どのようなものでも成長していきます。「老い」もその成長の一段階だと考えることもできますが、しかし、「老い」と言った場合、いわゆる「右肩上がり」的なイメージよりは、むしろ、「右肩下がり」的なイメージ、あるいは、ピークを過ぎて「終息」(「終息」は「息(生き)の終わり」と書くことに改めて気づかされました)に向うイメージの方が強いでしょう。そうした意味で、どこか「寂しさ」が漂うような気もします。
 しかし、逆に、どこまでも行っても「右肩上がり」というのは、これはこれで不自然なことです。山があれば谷があるのが自然なように、上り坂があれば下り坂があるのであって、「終息」など意識しなくても、いわば「自然体」で「老い」を生きればいいようにも思えます。
 さらに、「老い」そのものにもある種の「力」が宿ると考えることもできます。「若さ」は確かに「力」には違いありませんが、それはいわば「潜在力/可能力」であって、まだまだ未熟で、粗削りで、無鉄砲で、方向が定まらず、ある種の暴力性すらも備えています。それに対して、「老い」のうちには「現実的な力」が宿っているように思えます。それは成熟したものだけが持つ「静かな力」であり、定まった方向を持ちつつも、あらゆるものを包摂してくれる「包容力」です。「老い」にいたるまでの経験の蓄積がそうした実質的な力、「底力」を生み出しているのでしょう。
 しかし、とは言いつつも、現実には、体力、精神力はどうしても落ちてきます。目が見えにくくなり、俊敏性が失われ、持続力が落ち、物忘れが多くなり、集中力も鈍ってきます。今や、「65歳以上の高齢者」(65歳は高齢者でしょうか?)は人口の四分の一を越えました。今後ますます〈「老い」をいかに生きるか〉が社会問題となるなかで、改めて「老い」について考えてみたいと思います。


2016年10月20日木曜日

次回開催日のお知らせ

 次回の哲学カフェ「晤語の哲学」は以下の日程で開催します。
 テーマについては決まり次第、お伝えいたします。

日時:11月6日(日) 14時~16時
場所:島根大学 学生市民交流ハウス FLAT
   (島根大学松江キャンパス正門進んで左手)