ちなみに、「晤語(ごご)」とは「相対してうちとけて語ること」という意味です。

2019年8月9日金曜日

7月の「晤語の哲学」のご報告

 今回は、参加者6名、主催者2名の計8名での開催でした。テーマは「お金って何?」。以前から扱ってみたいと思いつつ、思い切れなかったテーマですが、今回、参加者の方から出していただいた希望テーマの中にあったので、思い切って扱ってみました。しかし、「案の定」というか、やはり難しいテーマでした。
 まず、「お金」というと、どうしても、経済システムのほうに頭がいってしまいがちですが、むしろ、「哲学カフェ」としては、お金の「人間的意味」を焦点化しようということになりました。が、その「人間的意味」をどう捉えるかという点で、みなさんバラバラで、議論の展開としては弱かったように思います。
 今日は、そのなかでも三つの観点にしぼってまとめておこうと思います。
 一つは「価値」に関わることです。これは、主に、「お金」をネガティブに捉える観点だと言えます。金銭的な価値によって、それぞれの人の個人的価値が揺らいでしまう面があることが指摘されたり、また、金銭的な価値基準があまりにも分かりやすいので、非金銭的な価値が忘却されがちであることが指摘されました。例えば、自分にとって価値がある/ないにかかわらず、値段が高ければ価値があると思ってしまうとか、欲しくないものでも安く買えたら「得した」と思ってしまうとか。そして、そんなことに惑わされている間に「お金よりも大切な何か」を忘れてしまうと。
 二つ目の観点はお金が人と人の「媒介」をなすという観点です。この観点は、特に地域通貨を例として語られました。地域通貨の趣旨は、基本的には、貯蓄、財産、利益といったものではなく、誰でもが遠慮なしに相互扶助の関係に立てるようにするものだと思います。しかし、人間関係を合理的な「ギブ&テイク」の関係に還元するということに対してさえ、私たちのうちには、無意識的な抵抗感があることが指摘されました。
 三つ目は、目に見えない「気持ち」を目に見える形にしているのが「お金」なのではないか、という観点です。本当の意味での福祉、親切、思いやりというのは、本来、お金には換算できないものですが、私たちはすっかり、そうしたものもお金に換算することに慣れてしまっています(地域通貨もその一例です)。でも、それは悪いことばかりではなく、それによって、社会全体の「豊かさ」が増すならば、いいことなのではないかと指摘されました。もちろん、その場合の「豊かさ」とは、経済的なものだけでなく、心の豊かさも含みます。親切をお金に換えて、それでみんなが心豊かに暮らせるなら、それはいいことではないか、という意見です。
 私たちは、普段、すっかり「お金のシステム」に慣れきってしまっていますが、時には、その深い意味について考え直してみるのもいいかもしれません。

2019年7月6日土曜日

次回のテーマについて

 次回の「晤語の哲学」のテーマが決まりましたので、お知らせします。
 テーマは「お金って何?」
 「老後2000万円」問題、「キャッシュレス決済」など、最近、「お金」にまつわる話題を多く聞きますが、そうした問題を念頭に置きつつ、「お金」の本質、「お金」の「人間的意味」のようなものを探ってみたいと思います。

 日時、場所を含めて、改めて、次回の要領を記しておきます。

日時:7月27日(土) 14時~16時
場所:島根大学 学生市民交流ハウス FLAT
   (島根大学松江キャンパス正門進んで左手)
   (以下のキャンパスマップをご参照ください。
    https://www.shimane-u.ac.jp/campus_maps/map_matsue.html)
テーマ:「お金って何?」
ファシリテータ:川瀬雅也(島根大学・神戸女学院大学教授)

 参加希望の方は、右の「参加申込/問い合せ」フォームからお申し込みください。


2019年6月14日金曜日

7月の「晤語の哲学」の日程について


次回の「晤語の哲学」の日程が決まりましたのでお知らせします。

2019年7月27日(土) 14時〜16時

場所は、いつもと同じ、島根大学松江キャンパスの「学生市民交流ハウス」です。
テーマについては、決まり次第、お知らせいたします。

2019年5月19日日曜日

5月の「晤語の哲学」のご報告

 今回の哲学カフェ「晤語の哲学」は、参加者7人、主催者2人の合計9人でした。テーマは「恥って何?」。では、さっそく、どんな対話が行われたか、その一端をご紹介しましょう。
 今回の対話は、恥の感情に縛られて、身動きできなくなってしまうことがある、という指摘からはじまりました。自分に対する他者の評価を気にしたり、社会の常識に照らして自分の現状を考えたりすると、恥の感情にさいなまれてしまう、というのです。あとから考えると、他者の評価だけでなく、常識でさえ、変わりやすい相対的なものでしかないのに、そんなものに右往左往していた自分がなさけなくなると。
 しかし、他者に承認されたいという欲求は誰にでもあるものでしょう。そして、常識を気にすることだってまったく普通なことです。ならば、他者の承認や常識を意識して、それに照らして自分を振り返ったときに、恥ずかしい思いをするのは当然なことのようにも思えます。
 でも他方で、こうした恥の感情は、自分を図る基準を自己の外にばかり置いていることから生じるとも言えるでしょう。自分にプライドを持ち、評価基準を自己自身の内側に持てるなら、他者や常識に対して自己を恥じることもないように思えます。どんなときでも、「自分は自分」と思えるなら、恥など感じないのではないでしょうか。
 しかし、恥の意識を持たなくてすむというのは本当にいいことなのでしょうか。ある参加者は、恥の意識にもプラス面があると指摘してくれました。恥は、自分でも気づいていない、〈自分の状態と他者の評価や社会常識とのズレ〉を教えてくれるものであり、恥を通して、このズレに気づくことで、それを修正することが可能になると言うのです。それは、〈自分を社会に合わせる〉という場合もありますが、場合によっては、自分の恥を通して、社会の常識の異常さに気づき、〈常識をただす〉きっかけ作りになることだってあることでしょう。
 すると、恥は、一方で、人を身動きさせなくしてしまうものであると同時に、他方では、人に気づきをあたえ、人を動かす力を持つものであると言えるでしょう。どうやら恥にはこうした二面性があるらしいのです。ならば、恥が持つこの二面性は互いにどのように関係しているのでしょうか・・・。
 と、こんなふうに、疑問はつきないのですが、実際、私たちの対話も疑問に疑問を重ねるように展開し、決して答えにたどり着きはしませんが、参加者それぞれが、自分自身の恥の感情について、深く考える機会になったように思えます。

2019年5月13日月曜日

次回テーマのお知らせ

 遅くなってしまいましたが、今週末開催の「晤語の哲学」のテーマをお知らせいたします。
 今回のテーマは「恥って何?」。
 日本文化は「恥の文化」(ルース・ベネディクト)だ、などとも言われますが、確かに、私たちの日常生活や人間関係の中で「恥」というのは大きな意味を占めているように思います。そうした「恥」について、あらためて多方面から掘り下げてみましょう。

 次回の開催要領を再度、掲載しておきます。

日時:5月18日(土) 15時~17時(いつもより1時間遅いスタートです)
場所:島根大学 学生市民交流ハウス FLAT
   (島根大学松江キャンパス正門進んで左手)
   (以下のキャンパスマップをご参照ください。
    https://www.shimane-u.ac.jp/campus_maps/map_matsue.html)
テーマ:「恥って何?」
ファシリテータ:川瀬雅也(島根大学・神戸女学院大学教授)

 参加希望の方は、右の「参加申込/問い合せ」フォームからお申し込みください。

2019年4月22日月曜日

五月の「晤語の哲学」について

 五月の哲学カフェ「晤語の哲学」は以下の日程で開催します。

日時:5月18日(土) 15時~17時
場所:島根大学 学生市民交流ハウス FLAT
   (島根大学松江キャンパス正門進んで左手)
   (以下のキャンパスマップをご参照ください。
    https://www.shimane-u.ac.jp/campus_maps/map_matsue.html

 5月18日(土)はホーランエンヤの「渡御祭」ですが、松江中心部でのスケジュールは午前中が主ですので、「晤語の哲学」は、午後に、少し余裕を持たせて、15時スタートということで開催いたします。場所はいつもの「学生市民交流ハウス フラット」です。

 参考(ホーランエンヤのスケジュール):
     https://www.ho-ran2019matsue.jp/schedule.html

 参加希望の方は、右の「参加申込/問い合せ」フォームからお申し込みください。
 また、テーマも常時募集しています。希望のテーマがある方は、同じく、右の「参加申込/問い合せ」フォームからご連絡ください。参考にさせていただきます。
 次回のテーマは、決まり次第、告知いたします。

2019年3月22日金曜日

3月の「晤語の哲学」のご報告


 今回は、主催者2名を含めて全部で11名の参加者でした。テーマは「生きる意味って何?」。いつもに輪をかけて抽象的で、難しいテーマでしたが、驚いたことに、とても充実した対話ができました(と川瀬は思います)。今回の報告では、いつものように対話の一端をご紹介するのではなく、対話を通して川瀬が考えたことを中心に記してみたいと思います。
 まず、今回のテーマにアプローチするために、動物と人間を比較してみました。おそらく、「生きる意味」について問うことのできる動物はいないでしょう。動物は本能的に生きており、いわば生きることに没入しているように思います。言い換えれば、動物は〈自分が生きること〉から距離を取って、それを眺めることができないのです(もちろん、動物の種によって違いがあるでしょうが)。それに対して、人間は〈自分が生きること〉を距離をおいて眺めることができます。生きることに没入している状態から身を引き離して、それを冷静に眺めて見ることができるのです。「生きる意味」への問いはそのときにはじめて生まれるのでしょう。
 ですから、「生きる意味」を問えるのは人間だけだと言えますが、今回の対話を通して考えたのは、この「生きる意味への問い」と「人間が生きること」との関係に次の三つの型があるのではないか、ということでした。
 1)第一の型:確かに「生きる意味」を問えるのは人間だけですが、多くの人は日常的にそんな問いは立てません。日々、仕事、家事、社会的役割、趣味、習い事等、「しなければならないこと」に没頭(没入)して生きている人がほとんどです。この状態においては、動物と同じというわけではないですが、〈自分が生きること〉から身を引き離して、それを冷静に眺めて見ることはないと言えます。ですから、ここでは「生きる意味」は問題になりません。
 2)第二の型:これは「しなければならないこと」への没入状態から抜け出して、「生きる意味」を問おうとする状態です。自分は何のために生きるのか、生きる目的・理由は何か、自分の生きがいとは何か、など。この状態においては、ただ生きるのではなくて、善く生きる、充実して生きることが問題になるでしょう。
 3)第三の型:第二の型は、いかに充実した人生を送るかについて考えている状態ですが、しかし、その状態においてさえも、そもそも自分が生きていることの意味や価値については問うことはないでしょう。自分が生きていることそのものについては素朴に肯定できていて、そのうえで、その人生をいかに充実して生きるかが問題になっている状態だと言えます。しかし、第三の型は、自分が生きていることに対してにわかには肯定できない状態、自分が生きていることを肯定するか、否定するかが問題になっている状態、あるいは、それを肯定できず、自分の存在を否定してしまいそうになっている状態だと言えます。
 これら三つの型は「状態」ですから、一人の人の中に混在しているものだと言えます。もちろん、もっぱら第一の型で生きている人もいますし、そうした人が多いでしょうが、そうした人でも、状況によって、第二、第三の型のような状態になることがあるでしょう。
 また、「生きる意味」が問題になってくるのは第二、第三の型においてですが、多くの場合、人が「生きる意味」ということで念頭に思い浮かべるのは、第二の型における問題、つまり、いかに充実した人生を送るか、いかに人生の目標を定めるか、といったことであるように思います。
 しかし、本当の意味で、あるいは、最も先鋭化した形で「生きる意味」が問題になるのは第三の型においてではないでしょうか。第三の型に見られる状態は決して一般的なものではないでしょうが、しかし、それは多くの人がその人生において遭遇しうる状態であるように思います。つまり、何らかの要因で生きることそのものに困難を抱かざるをえないような状態です。例えば、人生の失敗から極度に落ち込む、親しい人を亡くす、重い病気になる、障害をもって生きる、いじめを受ける、など、〈自分が生きることそのもの〉、〈自分の存在そのもの〉に安心感、肯定感を持てなくなってしまうような状況です(もちろん、こうした状況においても、強く自分の生を肯定できる人もいるでしょうが)。このような状況においてこそ、「生きる意味」が深く心に突き刺さる問題として立ち上がってくるのだろうと思うのです。
 では、こうした第三の型の状態に立たされたとき、人は「生きる意味」をどこに見いだしたらいいのでしょうか。実は、私にもその答えは分かりません。しかしまた、この問いに対する「答え」がどこかにあるようにも思えません。だとするなら、この問いに対して消極的に、つまり、「自分の存在なんて意味がない」と考える必要もない、ということにならないでしょうか。
 おそらく、われわれの周りには、意味・理由・価値といった(しばしば使われる)尺度では測れないものがあるのではないでしょうか。そして、そうしたものの一つが「生きること」なのかもしれません。だからこそ、「生きる意味」に対する答えを見いだせないのです。「生きること」は、本来、意味・価値・理由といった尺度には収まらないのに、むりやりにそうした尺度をあてがうことで、もしかしたら「生きること」の多様性・豊穣性を極度に狭め、貧しくしてしまっているのかもしれません。
 対話の中でも、「生きる意味などない」という哲学者の言葉を紹介してくれた人がいました。それは、もしかしたら、「生きること」は「意味(有意味・無意味)」という尺度では測れない、ということなのかもしれません。では、「生きること」にあてがいうる別の尺度があるのでしょうか。それとも、「生きること」は尺度そのものを拒絶するのでしょうか。
 問いはここで止めておきます。みなさんはどう考えるでしょうか。