ちなみに、「晤語(ごご)」とは「相対してうちとけて語ること」という意味です。

2018年11月12日月曜日

11月の「晤語の哲学」のご報告

 先日の10日、11月の「晤語の哲学」を開催しました。参加者は10人(うち初参加3人)、主催者2人を入れて、12人の参加者でした。
 今回も、ファシリテータの「独断」をまじえつつ、どんな対話がなされたのか、ちょっと紹介しましょう。
 今回のテーマは「〈嘘をつく〉ってどんなこと?」でした。「嘘って何?」ではなく、「嘘をつく」という「行為」の人間的、社会的意味を考えられたらと思って、テーマにしました。
 全体として、「悪い嘘」よりは、「良い嘘」や「許せる嘘」の方が話題になっていたように思います。「悪意のある嘘」は、「許せる嘘」との対比として持ち出されるくらいで、それ自体としては、あまりみなさんの話題になりませんでした。
 で、まずは、「良い嘘」「許せる嘘」について、それがどんな「構造」をしているのかを考えてみることにしました。まず、「嘘」をここでは「事実や自分の気持を分かっていて、その反対を言うこと」として理解することにしました(つまり、事実や気持の誤認や隠蔽は「嘘」に含めずに考えました)。
 そこから、嘘は、1)まず「事実に反して」、あるいは「自分の気持に反して」何かを言うものであり、2)さらに、相手や自分、あるいは、両者の関係を「守る」ため、さらには、その場を盛り上げるためといった目的のために発せられるもの、といった構造がとり出されました。
 こうした議論を踏まえて、この「目的」がさらに具体的に検討されました。相手を守る(おもんばかる、配慮する)と言っても、それはしばしばパターナリズムに陥っているのであり、相手を守ると言いながら、実は、自分を守っているのではないか、といった疑問が出されると、対話の雰囲気は、「実は、社会というのは、各人が自分の立場を守るために嘘の言い合いをしている場、あるいは、その場の安定や秩序を守るために互いに嘘をつきあっている場なのではないか(例えば、お世辞など)」という方向に向かっていきました。そして、そうした傾向に、「確かに少しの嘘もつかずに生きることなど誰にもできないのでは」という意見が拍車をかけました。そして、「みんなが嘘をつくことで、社会における人間関係や秩序、安定性が保たれるのであって、むしろ、(「嘘をつく」とは反対の)「正直に言う」ことは社会の安定、秩序を乱すものだ」という考えにたどりつきました。
 しかし、これに対しては、ある参加者から反対意見が出されました。嘘が社会の安定を守り、正直が安定を乱すというのはおかしい。例えば、内部告発などを考えると、それは嘘で固められた不正を正し、正義を実現するために、正直に事実が告発されるのだから、むしろ、正直こそ、社会を安定させ、秩序を回復させる力を持つのではないか、という意見でした。
 しかし、これに対しては、さらに議論がつづき、例えば、正直だとしても、「私はあなたのことが嫌いです」と誰かに面と向かって言うのは、やはり人間関係を乱すものではないか、との意見がありました。
 こんな議論が続いた後、対話は、「良い嘘」と「悪い嘘」の区別の問題に至りました。ここでも議論は紛糾し、ある参加者が、「良心の呵責を感じる嘘(あとから後悔する嘘)」が「悪い嘘」で、そうでない嘘が「良い嘘」ではないかと発言すると、別の参加者が、それは反対ではないかと応じました。例えば、振り込め詐欺の犯人は、嘘をついて人をだましても、良心の呵責を感じない。これこそ悪い嘘ではないか、というのです。いったい、良心の呵責を感じない場合、その嘘は「良い嘘」なのでしょうか、それとも「悪い嘘」なのでしょうか。ある参加者はこう応えました。良心の呵責を感じている限り、その人は、その嘘を後悔し、改めるはずで、そうであるかぎり、やはりそれは「良い嘘」なのではないか、と。
 さらに、「嘘をつく」という行為について、ある参加者の次のような発言が印象に残りました。
 自分の子供は小さいうちは嘘をつかなかったけど、だんだん大きくなると、時には嘘をつくようになった。それは、自分の中に「秘めるべき自分」「守るべき自分」というものができてくるからではないか。だから、「秘めるべき自分」というものをたくさん持っている大人は、他者と関わるときにどうしても嘘をつく。逆に、他者に対して常に自分の内面性を丸出しにしている大人には違和感を感じてしまう。大人は、「他者に見せる自分(公共性)」と「他者から隠す自分(私秘性)」のバランスをうまくとっており、嘘は両者のバランスのとるためのツールになっているように思う。こうした意味での嘘は、ある種「必要悪」だとは言えないか。この種の嘘は、大人の社会生活には「必要」なものであって、それが必要であるかぎり、それは「良い嘘」なのだが、その「必要性」をはずれたところで利用される嘘が「悪い嘘」になるように思う。
 おおよそ、こんな意見でした。
 もちろん、実際の対話はこの通りではなく、以上の記述は、参加者の発言とファシリテータの解釈がまぜこぜになっていますが、場の雰囲気は分かってもらえるのではないでしょうか。
 ぜひ、この報告を読んだみなさんも、あらためてご自分で「嘘をつく」ことの意味を考えてみてください。このテーマ、結構深いですよ。「嘘」というテーマを通して、人間の本性すら見えてきそうな気もします。

2018年11月8日木曜日

12月の予定

 12月の「晤語の哲学」の予定についてお知らせしておきます。
 12月は、12月22日(土)に開催します。
 時間と場所はいつもと同じ。14時〜16時島根大学松江キャンパス 学生市民交流ハウスFLATです。

 なお、今月の「晤語の哲学」は今週末(10日土曜日)です。参加希望の方は申し込みをお願いします。