ちなみに、「晤語(ごご)」とは「相対してうちとけて語ること」という意味です。

2019年12月17日火曜日

12月の晤語の哲学のご報告

 まず、今回の「晤語の哲学」にお申し込み・お問い合わせいただいた方に、お詫びしなければなりません。ブログのメールシステムがうまく機能せず、フォームからメールをお送りいただいたのに、私のところにメールが届いておらず、返信することができませんでした。申し訳ありませんでした。
 原因はいまだ分かりませんので、とりあえず、今後、お申し込み・お問い合わせについては、直接、下記のメールアドレスにお送りいただきますよう、お願いいたします。(参加申込/問い合せフォームは削除しました。)

参加申込/問い合せ:my901c@gmail.com

 さて、それでは12月の晤語の哲学の内容について、その一端をご紹介しましょう。
 今回は、参加者7名、主催者2名の計9名での開催でした。テーマは「地域」。もちろん、「意地域社会」といったような意味での「地域」です。ほとんどの参加者が、はじめ、このテーマについて「何を考えたらいいのか分からない」という状態でしたが、二時間の対話を終えたときには、みなさん、地域というテーマの背後にこんなに深く広い問題が潜んでいたのかと感心しておられました。
 近年、世の中では、地域との結びつきを重視する傾向が見られるなか、今回の参加者のみなさんは、比較的、「地域」というものに否定的なイメージを持つ人が多かったようです。理由は、「自治会が面倒」という意見から、地域への執着のうちに「冒険を嫌う安定志向」や「排他的な意識」の現れが感じられるから、という意見まで、いろいろありました。
 いっぽう、一昔前は、人々の暮らしが地域なしでは成り立たなかったはずであり、地域抜きに個人の暮らしを考えることができなかったと思われます。それに比べると、現代の日本人の暮らしは地域から切り離されていると言えますが、その理由は、人々の暮らし方(特に住宅や建物のあり方)のうちにあるのではないか、という意見が出されました。住宅が個々の家族を、さらには、個人の生活を仕切るように設計されることで、人々の意識が閉鎖的になり、「地域との結びつき」を厭わしく思ったり、他者との関わりを避ける傾向が生まれてきたのではないか、ということでした。
 では逆に、最近の「地域」重視の傾向はどう説明されるのでしょうか。ある参加者は、最近の地域重視の傾向は東日本大震災がきっかけだったのではないかと言っていました。確かに、そうした面はあるように感じられます。あのような大きな震災は、まさに人々の暮らしを根底からひっくり返します。もちろん、震災など起こって欲しくはありませんが、しかし同時に、あのような、現在の人間の生活を根底からひっくり返すような出来事が、人々に、人間が「生きること」、とりわけ「共に生きること」にとって真に大事なものに気づかせてくれるということはあるかもしれません。もし震災をきっかけに「地域」が見直される機運が高まったならば、それは、震災という不幸が、現代人が忘れていた「共に生きること」の意味を私たちに思い出させてくれたからなのかもしれません。
 どうやら、人の心の中には「つながりたい」と「独立したい」という二つの欲求が混在しているように思われます。地域との関わりという問題は、こうした人々の心の奥にある深い欲求と直結した問題であるように思えてきました。

2019年12月4日水曜日

次回のテーマについて

 次回のテーマを決定しましたので、お知らせします。
 次回のテーマは「地域って何?」です。
 テーマを含めて、再度、次回の開催要領を記しておきます。

日時:12月14日(土) 14時~16時
場所:島根大学 学生市民交流ハウス FLAT
   (島根大学松江キャンパス正門進んで左手)
   (以下のキャンパスマップをご参照ください。
    https://www.shimane-u.ac.jp/campus_maps/map_matsue.html)
テーマ:「地域って何?」
ファシリテータ:川瀬雅也(島根大学・神戸女学院大学教授)

 参加希望の方は、右の「参加申込/問い合せ」フォームからお申し込みください。

2019年10月31日木曜日

次回の開催日について

哲学カフェ「晤語の哲学」の次回の開催日を決定しましたのでお知らせします。

次回は、12月14日(土) 14時〜16時 に開催します。
場所は、いつもと同じ、島根大学松江キャンパスの学生市民交流ハウスFLATです。

テーマについては決定次第、このブログにて告知いたします。

なお、松江で開催できる哲学カフェ「晤語の哲学」は、おそらく、次回を含めて、あと二回になりそうです。
次々回は、来年2月か3月を予定しており、おそらく、それが松江での最終回になると思います。
残り少なくなってきましたが、とにかく、参加してくださるみなさんと、楽しく、充実した時間を過ごせたらと思っています。

次回の「晤語の哲学」に参加希望の方は、右の「参加申込/問い合せ」フォームからお申し込みください。


2019年10月7日月曜日

10月の晤語の哲学のご報告

 今回は、主催者2人を含めて、9名の参加者でしたが、うち2名ははじめて参加の方でした。
 では、今回も対話の一端をご紹介しましょう。今回のテーマは「〈愛する/愛される〉ってどういうこと?」でした。まず、二つの意見が出されました。一つは、〈愛する/愛される〉を喜びやうれしさを伴う好ましい人間関係だとする意見、もう一つは、愛は非常に幅広い対象(恋人、家族、所属先、祖国、文化など)に関わるが、しかし、その中心にあるのは常に「自分」であり、その意味では、「愛」とは常に「自己愛」なのでは、とする意見です。しかし、ただちに、対立する意見が出されます。個人的な体験から、相手に対する尊重に基づかない、自分勝手な愛は、むしろ、相手に負担をかけるものだと主張され(愛は好ましいものばかりではないとする意見)、むしろ、愛は相手への肯定/尊重を含まなければいけない(愛は自己愛であってはならない)とする意見です。そして、これに同調するかたちで、愛の反対は「無関心」であるとする説が紹介されると、これをきっかけに、対話はより深い方向へと進み始めました。
 ある参加者は、「愛する」ことを「愛を与える」ことと考えると、「与えた」のだから見返りを欲しいと考えてしまうが、本当の「愛する」とはそれとは違って、むしろ、相手に関心を持ち、相手を知りたいと思うことなのではないかと話してくれました。相手に感心をもつのは、「自己」というものがいつも欠如をかかえているからかもしれません。人は、しばしば、その欠如を他人からの愛、承認、見返り等で埋めようとします。しかし、大事なのは、欠けている自分を自分で受け入れ、愛してあげることなのかもしれません。ある参加者はこれを「健全な自己愛」と呼びました。欠けている自分を愛することで、欠如を無理矢理、形ばかりの「愛」で埋めようとせず、乾きを癒やそうとするように自然と他者を求める自分を肯定でき、見返りを考えることなく、素直に他者を愛せるのかもしれません。また、そのようにして、同時に、他者からの愛も自然に受け入れられるのかもしれません。こう考えると、「健全な自己愛」「他者を愛する」「他者から愛される」がすべて一つのこととしてつながってきます。おおよそ、こんな対話が展開されました。
 「愛」というとても抽象的で、多様な側面をもつテーマだっただけに、それぞれの参加者の考えがかみ合わず、空中分解するのでは、と心配でしたが、結果的には、非常に充実した対話が展開され、主催者としても大満足の二時間でした。

2019年9月27日金曜日

次回のテーマについて

 次回のテーマを決定しましたので、お知らせします。
 次回のテーマは「〈愛する/愛される〉ってどういうこと?」です。
 テーマを含めて、再度、次回の開催要領を記しておきます。
 ご興味のある方は、右の「参加申込/問い合せ」フォームからお申し込みの上、ご参加ください。

日時:10月5日(土) 14時~16時
場所:島根大学 学生市民交流ハウス FLAT
   (島根大学松江キャンパス正門進んで左手)
   (以下のキャンパスマップをご参照ください。
    https://www.shimane-u.ac.jp/campus_maps/map_matsue.html)
テーマ:「〈愛する/愛される〉ってどういうこと?」
ファシリテータ:川瀬雅也(島根大学・神戸女学院大学教授)


2019年8月30日金曜日

次回の開催日について

 哲学カフェ「晤語の哲学」の次回の開催日についてお知らせします。

 次回は、10月5日(土)14時〜16時 に開催します。
 場所は、いつもと同じ、島根大学松江キャンパス 学生市民交流ハウス です。

 当初は9月開催予定でしたが、少しずれこむことになりました。よろしくお願いいたします。

 参加を希望される方は、右の「参加申込/問い合せ」フォームから申し込みをお願いします。また、話し合うテーマの希望についても、同じフォームからお寄せ下さい。

2019年8月9日金曜日

7月の「晤語の哲学」のご報告

 今回は、参加者6名、主催者2名の計8名での開催でした。テーマは「お金って何?」。以前から扱ってみたいと思いつつ、思い切れなかったテーマですが、今回、参加者の方から出していただいた希望テーマの中にあったので、思い切って扱ってみました。しかし、「案の定」というか、やはり難しいテーマでした。
 まず、「お金」というと、どうしても、経済システムのほうに頭がいってしまいがちですが、むしろ、「哲学カフェ」としては、お金の「人間的意味」を焦点化しようということになりました。が、その「人間的意味」をどう捉えるかという点で、みなさんバラバラで、議論の展開としては弱かったように思います。
 今日は、そのなかでも三つの観点にしぼってまとめておこうと思います。
 一つは「価値」に関わることです。これは、主に、「お金」をネガティブに捉える観点だと言えます。金銭的な価値によって、それぞれの人の個人的価値が揺らいでしまう面があることが指摘されたり、また、金銭的な価値基準があまりにも分かりやすいので、非金銭的な価値が忘却されがちであることが指摘されました。例えば、自分にとって価値がある/ないにかかわらず、値段が高ければ価値があると思ってしまうとか、欲しくないものでも安く買えたら「得した」と思ってしまうとか。そして、そんなことに惑わされている間に「お金よりも大切な何か」を忘れてしまうと。
 二つ目の観点はお金が人と人の「媒介」をなすという観点です。この観点は、特に地域通貨を例として語られました。地域通貨の趣旨は、基本的には、貯蓄、財産、利益といったものではなく、誰でもが遠慮なしに相互扶助の関係に立てるようにするものだと思います。しかし、人間関係を合理的な「ギブ&テイク」の関係に還元するということに対してさえ、私たちのうちには、無意識的な抵抗感があることが指摘されました。
 三つ目は、目に見えない「気持ち」を目に見える形にしているのが「お金」なのではないか、という観点です。本当の意味での福祉、親切、思いやりというのは、本来、お金には換算できないものですが、私たちはすっかり、そうしたものもお金に換算することに慣れてしまっています(地域通貨もその一例です)。でも、それは悪いことばかりではなく、それによって、社会全体の「豊かさ」が増すならば、いいことなのではないかと指摘されました。もちろん、その場合の「豊かさ」とは、経済的なものだけでなく、心の豊かさも含みます。親切をお金に換えて、それでみんなが心豊かに暮らせるなら、それはいいことではないか、という意見です。
 私たちは、普段、すっかり「お金のシステム」に慣れきってしまっていますが、時には、その深い意味について考え直してみるのもいいかもしれません。

2019年7月6日土曜日

次回のテーマについて

 次回の「晤語の哲学」のテーマが決まりましたので、お知らせします。
 テーマは「お金って何?」
 「老後2000万円」問題、「キャッシュレス決済」など、最近、「お金」にまつわる話題を多く聞きますが、そうした問題を念頭に置きつつ、「お金」の本質、「お金」の「人間的意味」のようなものを探ってみたいと思います。

 日時、場所を含めて、改めて、次回の要領を記しておきます。

日時:7月27日(土) 14時~16時
場所:島根大学 学生市民交流ハウス FLAT
   (島根大学松江キャンパス正門進んで左手)
   (以下のキャンパスマップをご参照ください。
    https://www.shimane-u.ac.jp/campus_maps/map_matsue.html)
テーマ:「お金って何?」
ファシリテータ:川瀬雅也(島根大学・神戸女学院大学教授)

 参加希望の方は、右の「参加申込/問い合せ」フォームからお申し込みください。


2019年6月14日金曜日

7月の「晤語の哲学」の日程について


次回の「晤語の哲学」の日程が決まりましたのでお知らせします。

2019年7月27日(土) 14時〜16時

場所は、いつもと同じ、島根大学松江キャンパスの「学生市民交流ハウス」です。
テーマについては、決まり次第、お知らせいたします。

2019年5月19日日曜日

5月の「晤語の哲学」のご報告

 今回の哲学カフェ「晤語の哲学」は、参加者7人、主催者2人の合計9人でした。テーマは「恥って何?」。では、さっそく、どんな対話が行われたか、その一端をご紹介しましょう。
 今回の対話は、恥の感情に縛られて、身動きできなくなってしまうことがある、という指摘からはじまりました。自分に対する他者の評価を気にしたり、社会の常識に照らして自分の現状を考えたりすると、恥の感情にさいなまれてしまう、というのです。あとから考えると、他者の評価だけでなく、常識でさえ、変わりやすい相対的なものでしかないのに、そんなものに右往左往していた自分がなさけなくなると。
 しかし、他者に承認されたいという欲求は誰にでもあるものでしょう。そして、常識を気にすることだってまったく普通なことです。ならば、他者の承認や常識を意識して、それに照らして自分を振り返ったときに、恥ずかしい思いをするのは当然なことのようにも思えます。
 でも他方で、こうした恥の感情は、自分を図る基準を自己の外にばかり置いていることから生じるとも言えるでしょう。自分にプライドを持ち、評価基準を自己自身の内側に持てるなら、他者や常識に対して自己を恥じることもないように思えます。どんなときでも、「自分は自分」と思えるなら、恥など感じないのではないでしょうか。
 しかし、恥の意識を持たなくてすむというのは本当にいいことなのでしょうか。ある参加者は、恥の意識にもプラス面があると指摘してくれました。恥は、自分でも気づいていない、〈自分の状態と他者の評価や社会常識とのズレ〉を教えてくれるものであり、恥を通して、このズレに気づくことで、それを修正することが可能になると言うのです。それは、〈自分を社会に合わせる〉という場合もありますが、場合によっては、自分の恥を通して、社会の常識の異常さに気づき、〈常識をただす〉きっかけ作りになることだってあることでしょう。
 すると、恥は、一方で、人を身動きさせなくしてしまうものであると同時に、他方では、人に気づきをあたえ、人を動かす力を持つものであると言えるでしょう。どうやら恥にはこうした二面性があるらしいのです。ならば、恥が持つこの二面性は互いにどのように関係しているのでしょうか・・・。
 と、こんなふうに、疑問はつきないのですが、実際、私たちの対話も疑問に疑問を重ねるように展開し、決して答えにたどり着きはしませんが、参加者それぞれが、自分自身の恥の感情について、深く考える機会になったように思えます。

2019年5月13日月曜日

次回テーマのお知らせ

 遅くなってしまいましたが、今週末開催の「晤語の哲学」のテーマをお知らせいたします。
 今回のテーマは「恥って何?」。
 日本文化は「恥の文化」(ルース・ベネディクト)だ、などとも言われますが、確かに、私たちの日常生活や人間関係の中で「恥」というのは大きな意味を占めているように思います。そうした「恥」について、あらためて多方面から掘り下げてみましょう。

 次回の開催要領を再度、掲載しておきます。

日時:5月18日(土) 15時~17時(いつもより1時間遅いスタートです)
場所:島根大学 学生市民交流ハウス FLAT
   (島根大学松江キャンパス正門進んで左手)
   (以下のキャンパスマップをご参照ください。
    https://www.shimane-u.ac.jp/campus_maps/map_matsue.html)
テーマ:「恥って何?」
ファシリテータ:川瀬雅也(島根大学・神戸女学院大学教授)

 参加希望の方は、右の「参加申込/問い合せ」フォームからお申し込みください。

2019年4月22日月曜日

五月の「晤語の哲学」について

 五月の哲学カフェ「晤語の哲学」は以下の日程で開催します。

日時:5月18日(土) 15時~17時
場所:島根大学 学生市民交流ハウス FLAT
   (島根大学松江キャンパス正門進んで左手)
   (以下のキャンパスマップをご参照ください。
    https://www.shimane-u.ac.jp/campus_maps/map_matsue.html

 5月18日(土)はホーランエンヤの「渡御祭」ですが、松江中心部でのスケジュールは午前中が主ですので、「晤語の哲学」は、午後に、少し余裕を持たせて、15時スタートということで開催いたします。場所はいつもの「学生市民交流ハウス フラット」です。

 参考(ホーランエンヤのスケジュール):
     https://www.ho-ran2019matsue.jp/schedule.html

 参加希望の方は、右の「参加申込/問い合せ」フォームからお申し込みください。
 また、テーマも常時募集しています。希望のテーマがある方は、同じく、右の「参加申込/問い合せ」フォームからご連絡ください。参考にさせていただきます。
 次回のテーマは、決まり次第、告知いたします。

2019年3月22日金曜日

3月の「晤語の哲学」のご報告


 今回は、主催者2名を含めて全部で11名の参加者でした。テーマは「生きる意味って何?」。いつもに輪をかけて抽象的で、難しいテーマでしたが、驚いたことに、とても充実した対話ができました(と川瀬は思います)。今回の報告では、いつものように対話の一端をご紹介するのではなく、対話を通して川瀬が考えたことを中心に記してみたいと思います。
 まず、今回のテーマにアプローチするために、動物と人間を比較してみました。おそらく、「生きる意味」について問うことのできる動物はいないでしょう。動物は本能的に生きており、いわば生きることに没入しているように思います。言い換えれば、動物は〈自分が生きること〉から距離を取って、それを眺めることができないのです(もちろん、動物の種によって違いがあるでしょうが)。それに対して、人間は〈自分が生きること〉を距離をおいて眺めることができます。生きることに没入している状態から身を引き離して、それを冷静に眺めて見ることができるのです。「生きる意味」への問いはそのときにはじめて生まれるのでしょう。
 ですから、「生きる意味」を問えるのは人間だけだと言えますが、今回の対話を通して考えたのは、この「生きる意味への問い」と「人間が生きること」との関係に次の三つの型があるのではないか、ということでした。
 1)第一の型:確かに「生きる意味」を問えるのは人間だけですが、多くの人は日常的にそんな問いは立てません。日々、仕事、家事、社会的役割、趣味、習い事等、「しなければならないこと」に没頭(没入)して生きている人がほとんどです。この状態においては、動物と同じというわけではないですが、〈自分が生きること〉から身を引き離して、それを冷静に眺めて見ることはないと言えます。ですから、ここでは「生きる意味」は問題になりません。
 2)第二の型:これは「しなければならないこと」への没入状態から抜け出して、「生きる意味」を問おうとする状態です。自分は何のために生きるのか、生きる目的・理由は何か、自分の生きがいとは何か、など。この状態においては、ただ生きるのではなくて、善く生きる、充実して生きることが問題になるでしょう。
 3)第三の型:第二の型は、いかに充実した人生を送るかについて考えている状態ですが、しかし、その状態においてさえも、そもそも自分が生きていることの意味や価値については問うことはないでしょう。自分が生きていることそのものについては素朴に肯定できていて、そのうえで、その人生をいかに充実して生きるかが問題になっている状態だと言えます。しかし、第三の型は、自分が生きていることに対してにわかには肯定できない状態、自分が生きていることを肯定するか、否定するかが問題になっている状態、あるいは、それを肯定できず、自分の存在を否定してしまいそうになっている状態だと言えます。
 これら三つの型は「状態」ですから、一人の人の中に混在しているものだと言えます。もちろん、もっぱら第一の型で生きている人もいますし、そうした人が多いでしょうが、そうした人でも、状況によって、第二、第三の型のような状態になることがあるでしょう。
 また、「生きる意味」が問題になってくるのは第二、第三の型においてですが、多くの場合、人が「生きる意味」ということで念頭に思い浮かべるのは、第二の型における問題、つまり、いかに充実した人生を送るか、いかに人生の目標を定めるか、といったことであるように思います。
 しかし、本当の意味で、あるいは、最も先鋭化した形で「生きる意味」が問題になるのは第三の型においてではないでしょうか。第三の型に見られる状態は決して一般的なものではないでしょうが、しかし、それは多くの人がその人生において遭遇しうる状態であるように思います。つまり、何らかの要因で生きることそのものに困難を抱かざるをえないような状態です。例えば、人生の失敗から極度に落ち込む、親しい人を亡くす、重い病気になる、障害をもって生きる、いじめを受ける、など、〈自分が生きることそのもの〉、〈自分の存在そのもの〉に安心感、肯定感を持てなくなってしまうような状況です(もちろん、こうした状況においても、強く自分の生を肯定できる人もいるでしょうが)。このような状況においてこそ、「生きる意味」が深く心に突き刺さる問題として立ち上がってくるのだろうと思うのです。
 では、こうした第三の型の状態に立たされたとき、人は「生きる意味」をどこに見いだしたらいいのでしょうか。実は、私にもその答えは分かりません。しかしまた、この問いに対する「答え」がどこかにあるようにも思えません。だとするなら、この問いに対して消極的に、つまり、「自分の存在なんて意味がない」と考える必要もない、ということにならないでしょうか。
 おそらく、われわれの周りには、意味・理由・価値といった(しばしば使われる)尺度では測れないものがあるのではないでしょうか。そして、そうしたものの一つが「生きること」なのかもしれません。だからこそ、「生きる意味」に対する答えを見いだせないのです。「生きること」は、本来、意味・価値・理由といった尺度には収まらないのに、むりやりにそうした尺度をあてがうことで、もしかしたら「生きること」の多様性・豊穣性を極度に狭め、貧しくしてしまっているのかもしれません。
 対話の中でも、「生きる意味などない」という哲学者の言葉を紹介してくれた人がいました。それは、もしかしたら、「生きること」は「意味(有意味・無意味)」という尺度では測れない、ということなのかもしれません。では、「生きること」にあてがいうる別の尺度があるのでしょうか。それとも、「生きること」は尺度そのものを拒絶するのでしょうか。
 問いはここで止めておきます。みなさんはどう考えるでしょうか。

2019年3月12日火曜日

3月の「晤語の哲学」のご案内

3月の哲学カフェ「晤語の哲学」は以下の要領で行います。
参加ご希望の方は、右の「参加申込/問い合せ」フォームから申し込みをお願いします。

日時:3月21日(木・祝) 14時~16時
場所:島根大学 学生市民交流ハウス FLAT
   (島根大学松江キャンパス正門進んで左手)
   (以下のキャンパスマップをご参照ください。
    https://www.shimane-u.ac.jp/campus_maps/map_matsue.html)
テーマ:「生きる意味って何?」
ファシリテータ:川瀬雅也(島根大学教授)

今回は、かなり大きなテーマですが、同時に、誰でもが、普段まず考えることのない(逆に、考え始めたら、普通に生きられなくなってしまう)テーマではないでしょうか。
普段考えることのないテーマを考えてみることこそ、哲学カフェの真骨頂。
哲学カフェの真髄を存分に味わいましょう。

2019年3月2日土曜日

宣伝!

 哲学カフェ「晤語の哲学」の主催者の一人である川瀬が、このたび、新著を出版しましたので、お知らせ(宣伝)いたします。

 タイトルは、『生の現象学とは何か──ミシェル・アンリと木村敏のクロスオーバー』(法政大学出版局、2019年)です。

 一応、「生の現象学」への入門書として書きました。(「生の現象学」って何? と思われるでしょうが、そうした問いに答えるのがこの本だと思ってください。)
 とかく抽象的で、難解になりがちな哲学の議論ですが、分かりやすく叙述し、また、具体例もたくさん用いて、一般の方や学生さん(哲学以外の専門の方も含めて)でも、それなりに理解していただけるように書いたつもりです。
 ただし、単なる概説書でなく、専門の哲学研究者が読んでも、それなりに「読み応え」のあるものを書きたいと思っていましたので、そのような著書になるように努力しました。
 しかし、はたして、それが成功しているかどうかは、読者のみなさんの判断にお任せするよりありません。



法政大学出版局の紹介ページ
http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-15100-2.html


なお、ついでに、以前の著書と翻訳書も紹介させていただきます。
(ただし、こちらは、それなりに専門的な内容になっています。)

『経験のアルケオロジー──現象学と生命の哲学』(勁草書房、2010年)
勁草書房のページ
http://www.keisoshobo.co.jp/book/b245378.html

『ミシェル・アンリ──生の現象学入門」(勁草書房、2012年)
勁草書房のページ
http://www.keisoshobo.co.jp/book/b103689.html

2019年2月27日水曜日

3月の日程&来年度の予定

 哲学カフェ「晤語の哲学」の3月の日程が決まりましたので、お知らせします。

日時:3月21日(木・祝) 14時〜16時

場所は、いつものように、島根大学松江キャンパスの学生市民交流ハウスFLATです。

 テーマの希望は常時受け付けています。右の「参加申込/問い合せ」フォームから希望のテーマをお送りください。
 次回のテーマは、決定次第、お知らせいたします。

 また、参加の申し込みも、右の「参加申込/問い合せ」フォームからお願いいたします。

 なお、来年度の予定についてもご連絡しておきます。
 「晤語の哲学」の主催者の一人である島根大学の川瀬雅也は、来年度から、関西の大学に転任することになりました。ただ、来年度いっぱいは、およそ月に1、2回のペースで、島根大学でも授業を担当する予定です。
 そこで、来年度の「晤語の哲学」は隔月で開催したいと思っています。(ただし、現時点では、今後の状況がはっきりとは見通せませんので、これは一応の「努力目標」とさせてください。)
 したがって、次々回の「晤語の哲学」は5月に開催できればと思っています。
 ご理解のほど、よろしくお願いいたします。

2019年2月17日日曜日

2月の「晤語の哲学」のご報告


 2月の「晤語の哲学」は、参加者7名、主催者2名の9名での開催でした。今回のテーマは「甘えって何?」。今月も対話の一端を紹介しましょう。
 前半で「甘え」という言葉についてのいろいろなイメージについて話し合ううち、「甘え」というものは、「受け入れられたり–受け入れられなかったり」、あるいは「許されたり–許されなかったり」するものだという、「甘え」の一般的性質が浮かび上がってきました。そこで、「甘える側」と「甘えを受け入れる/入れない側(甘えの受け皿)」とを分けて考えてみることにしました。
 「甘えの受け皿」については、それを四つに分けて考える案が出されました。世間(社会)、友人(同志)、家族(特に母)、そして自分自身です。
 他方、「甘える側」については、甘えることで何を(実現)しようとしているのか、と考えてみました。それに対しては(特に家族や身内に対する甘えが念頭にあったと思いますが)、「根本的欲求を満たしている」、「エネルギー(力)を得ている」、「帰るべき場に立ち戻っている」などの意見が出されました。人が甘えられる場というのは、自分を肯定してもらえる場、無条件に受け入れてもらえる場だろうということから、人には、そうした場に身を置くことで、安心できたり、生きる力を得られたりするのではないか、と考えました。
 次に考えてみたのは、「甘えの受け皿」と「甘える側」の関係です。「甘え」に「情緒的甘え」と「物質的甘え」を区別する案が出され(両者は厳密には分けられない、という案も出ましたが)、それらの甘えが、どんな条件で受け入れられ、また、受け入れられないのか、あるいは、これらの「甘え」と、「自立」や「責任」の関係はどうなっているのか、などについて意見が交わされました。
 また、最近の社会は、教育からビジネスに至るまで、いたるところで「かゆいところに手が届く」サービスが尽くされていて、それがかえって、受け手を「甘え」させることにつながっている、という意見もありました。それが当たり前になると、どんな場合でも、子供が勉強できないのは先生のせい、客の不満は売り手のせい、ということになってしまいます。実際、最近の社会では、そんな状況も見られるような・・・。
 要は、「甘え」の程度、頃合い、ということなのでしょうが、実は、その微妙なバランスがとても難しいのでしょうね。

2019年2月7日木曜日

2月の哲学カフェのご案内

2月の哲学カフェ「晤語の哲学」のご案内です。
 以下の要領で行いますので、参加ご希望の方は、右の「参加申込/問い合せ」フォームから申し込みをお願いします。

日時:2月16日(土) 14時~16時
場所:島根大学 学生市民交流ハウス FLAT
   (島根大学松江キャンパス正門進んで左手)
   (以下のキャンパスマップをご参照ください。
    https://www.shimane-u.ac.jp/campus_maps/map_matsue.html)
テーマ:「甘えって何?」
ファシリテータ:川瀬雅也(島根大学教授)

次回のテーマ「甘え」です。
いろいろな方面から考えられそうですね。

2019年1月14日月曜日

1月の「晤語の哲学」のご報告

 今回のテーマは「まじめって何?」 参加者11名、主催者2名の13名で、二時間にわたり対話を行いました。今回も、その一部を紹介しましょう。
 まず、「まじめ(真面目)」という言葉が、本来、「真剣な態度」というポジティブな意味であるのに、ひとに「まじめだね」と言われると嫌な思いをするなど、しばしばネガティブに理解されてしまうという点に着目しました。どうやら、「まじめ」には辞書的な意味と日常的な意味の二つがあるようです。
 「まじめ」の日常的な意味は「融通がきかない」「おもしろみがない」「きまじめ」といった意味でしょうが、では、どうして辞書的にはポジティブな意味である「まじめ」が、ネガティブに理解されてしまうのでしょうか。
 対話では、外国語との比較から、もしかしたら、これは日本文化の特徴なのではないか推測してみました。日本文化には個人よりも集団を重視する傾向があります。そうした中で、「まじめ」の意味が、「ある個人がどれだけ真剣な態度か」ではなく、「いかに集団のルールや形式を守っているか」に転じてきたのかもしれません。日本社会では、「自分にとってどういう意義があるか」ではなく、「ルールだから、周りに合わせなければならないから」という理由でなされる行為が「まじめ」な行為だとして評価される傾向にあるのではなかいか、と考えてみました。
 参加者の多くが、こうした「日本的まじめ」に対してはあまり良いこととは感じていないようで、「誰に対するまじめなのか」ということをよく考えるべきだとの意見が出ました。
 もし、辞書的な意味でのまじめ(真剣な態度)を「自己の要求に対するまじめ」と理解するなら、日本的まじめは「社会や集団の要求に対するまじめ」だと言えるかもしれません。日本社会には、統一性、協調性を要求する傾向があり、そうした社会の要求に応える態度が「まじめ」だと評価されるのであって、日本的まじめは、「自分に対するまじめ」ではなく、「社会に対するまじめ」だと言えるでしょう。
 しかし、最初に話題になったように、私たちはしばしば、「(日本的な意味で)まじめだね」と言われると嫌な気持ちになります。これは、私たちのうちに、統一性、協調性を要求する社会の傾向に対する抵抗感があるからなのかもしれません。「自分は全体のうちに埋没したくない」「自分の個性を発揮したい」という欲求が、「(日本的な意味で)まじめだね」と言われることに対する嫌悪感として現れてきている、そんなふうに考えることもできるでしょう。
 対話では、これ以外にも、「まじめ」をめぐっていろいろな意見、考えが出されました。「まじめ」の意味なんて、誰でも知っている当たり前のことだけど、こうして改めてじっくり考えてみると、思いもよらなかった「まじめ」の多様な側面に気づかされるものです。

2019年1月10日木曜日

2月の日程について

哲学カフェ「晤語の哲学」の2月の日程が決まりましたのでご連絡します。
 
 2月16日(土) 14時〜16時

場所は、いつものように、島根大学松江キャンパス 学生市民交流ハウスFLAT です。

なお、1月の晤語の哲学は次の日曜日、13日です。
参加希望の方は、右のフォームから申し込みをお願いします。

2019年1月7日月曜日

1月の哲学カフェのご案内

明けましておめでとうございます。
本年も哲学カフェ「晤語の哲学」をよろしくお願いいたします。

さて、1月の「晤語の哲学」のご案内です。
 以下の要領で行いますので、参加ご希望の方は、右の「参加申込/問い合せ」フォームから申し込みをお願いします。

日時:1月13日(日) 14時~16時
場所:島根大学 学生市民交流ハウス FLAT
   (島根大学松江キャンパス正門進んで左手)
   (以下のキャンパスマップをご参照ください。
    https://www.shimane-u.ac.jp/campus_maps/map_matsue.html)
テーマ:「まじめって何?」
ファシリテータ:川瀬雅也(島根大学教授)