ちなみに、「晤語(ごご)」とは「相対してうちとけて語ること」という意味です。

2019年10月7日月曜日

10月の晤語の哲学のご報告

 今回は、主催者2人を含めて、9名の参加者でしたが、うち2名ははじめて参加の方でした。
 では、今回も対話の一端をご紹介しましょう。今回のテーマは「〈愛する/愛される〉ってどういうこと?」でした。まず、二つの意見が出されました。一つは、〈愛する/愛される〉を喜びやうれしさを伴う好ましい人間関係だとする意見、もう一つは、愛は非常に幅広い対象(恋人、家族、所属先、祖国、文化など)に関わるが、しかし、その中心にあるのは常に「自分」であり、その意味では、「愛」とは常に「自己愛」なのでは、とする意見です。しかし、ただちに、対立する意見が出されます。個人的な体験から、相手に対する尊重に基づかない、自分勝手な愛は、むしろ、相手に負担をかけるものだと主張され(愛は好ましいものばかりではないとする意見)、むしろ、愛は相手への肯定/尊重を含まなければいけない(愛は自己愛であってはならない)とする意見です。そして、これに同調するかたちで、愛の反対は「無関心」であるとする説が紹介されると、これをきっかけに、対話はより深い方向へと進み始めました。
 ある参加者は、「愛する」ことを「愛を与える」ことと考えると、「与えた」のだから見返りを欲しいと考えてしまうが、本当の「愛する」とはそれとは違って、むしろ、相手に関心を持ち、相手を知りたいと思うことなのではないかと話してくれました。相手に感心をもつのは、「自己」というものがいつも欠如をかかえているからかもしれません。人は、しばしば、その欠如を他人からの愛、承認、見返り等で埋めようとします。しかし、大事なのは、欠けている自分を自分で受け入れ、愛してあげることなのかもしれません。ある参加者はこれを「健全な自己愛」と呼びました。欠けている自分を愛することで、欠如を無理矢理、形ばかりの「愛」で埋めようとせず、乾きを癒やそうとするように自然と他者を求める自分を肯定でき、見返りを考えることなく、素直に他者を愛せるのかもしれません。また、そのようにして、同時に、他者からの愛も自然に受け入れられるのかもしれません。こう考えると、「健全な自己愛」「他者を愛する」「他者から愛される」がすべて一つのこととしてつながってきます。おおよそ、こんな対話が展開されました。
 「愛」というとても抽象的で、多様な側面をもつテーマだっただけに、それぞれの参加者の考えがかみ合わず、空中分解するのでは、と心配でしたが、結果的には、非常に充実した対話が展開され、主催者としても大満足の二時間でした。

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