ちなみに、「晤語(ごご)」とは「相対してうちとけて語ること」という意味です。

2019年3月22日金曜日

3月の「晤語の哲学」のご報告


 今回は、主催者2名を含めて全部で11名の参加者でした。テーマは「生きる意味って何?」。いつもに輪をかけて抽象的で、難しいテーマでしたが、驚いたことに、とても充実した対話ができました(と川瀬は思います)。今回の報告では、いつものように対話の一端をご紹介するのではなく、対話を通して川瀬が考えたことを中心に記してみたいと思います。
 まず、今回のテーマにアプローチするために、動物と人間を比較してみました。おそらく、「生きる意味」について問うことのできる動物はいないでしょう。動物は本能的に生きており、いわば生きることに没入しているように思います。言い換えれば、動物は〈自分が生きること〉から距離を取って、それを眺めることができないのです(もちろん、動物の種によって違いがあるでしょうが)。それに対して、人間は〈自分が生きること〉を距離をおいて眺めることができます。生きることに没入している状態から身を引き離して、それを冷静に眺めて見ることができるのです。「生きる意味」への問いはそのときにはじめて生まれるのでしょう。
 ですから、「生きる意味」を問えるのは人間だけだと言えますが、今回の対話を通して考えたのは、この「生きる意味への問い」と「人間が生きること」との関係に次の三つの型があるのではないか、ということでした。
 1)第一の型:確かに「生きる意味」を問えるのは人間だけですが、多くの人は日常的にそんな問いは立てません。日々、仕事、家事、社会的役割、趣味、習い事等、「しなければならないこと」に没頭(没入)して生きている人がほとんどです。この状態においては、動物と同じというわけではないですが、〈自分が生きること〉から身を引き離して、それを冷静に眺めて見ることはないと言えます。ですから、ここでは「生きる意味」は問題になりません。
 2)第二の型:これは「しなければならないこと」への没入状態から抜け出して、「生きる意味」を問おうとする状態です。自分は何のために生きるのか、生きる目的・理由は何か、自分の生きがいとは何か、など。この状態においては、ただ生きるのではなくて、善く生きる、充実して生きることが問題になるでしょう。
 3)第三の型:第二の型は、いかに充実した人生を送るかについて考えている状態ですが、しかし、その状態においてさえも、そもそも自分が生きていることの意味や価値については問うことはないでしょう。自分が生きていることそのものについては素朴に肯定できていて、そのうえで、その人生をいかに充実して生きるかが問題になっている状態だと言えます。しかし、第三の型は、自分が生きていることに対してにわかには肯定できない状態、自分が生きていることを肯定するか、否定するかが問題になっている状態、あるいは、それを肯定できず、自分の存在を否定してしまいそうになっている状態だと言えます。
 これら三つの型は「状態」ですから、一人の人の中に混在しているものだと言えます。もちろん、もっぱら第一の型で生きている人もいますし、そうした人が多いでしょうが、そうした人でも、状況によって、第二、第三の型のような状態になることがあるでしょう。
 また、「生きる意味」が問題になってくるのは第二、第三の型においてですが、多くの場合、人が「生きる意味」ということで念頭に思い浮かべるのは、第二の型における問題、つまり、いかに充実した人生を送るか、いかに人生の目標を定めるか、といったことであるように思います。
 しかし、本当の意味で、あるいは、最も先鋭化した形で「生きる意味」が問題になるのは第三の型においてではないでしょうか。第三の型に見られる状態は決して一般的なものではないでしょうが、しかし、それは多くの人がその人生において遭遇しうる状態であるように思います。つまり、何らかの要因で生きることそのものに困難を抱かざるをえないような状態です。例えば、人生の失敗から極度に落ち込む、親しい人を亡くす、重い病気になる、障害をもって生きる、いじめを受ける、など、〈自分が生きることそのもの〉、〈自分の存在そのもの〉に安心感、肯定感を持てなくなってしまうような状況です(もちろん、こうした状況においても、強く自分の生を肯定できる人もいるでしょうが)。このような状況においてこそ、「生きる意味」が深く心に突き刺さる問題として立ち上がってくるのだろうと思うのです。
 では、こうした第三の型の状態に立たされたとき、人は「生きる意味」をどこに見いだしたらいいのでしょうか。実は、私にもその答えは分かりません。しかしまた、この問いに対する「答え」がどこかにあるようにも思えません。だとするなら、この問いに対して消極的に、つまり、「自分の存在なんて意味がない」と考える必要もない、ということにならないでしょうか。
 おそらく、われわれの周りには、意味・理由・価値といった(しばしば使われる)尺度では測れないものがあるのではないでしょうか。そして、そうしたものの一つが「生きること」なのかもしれません。だからこそ、「生きる意味」に対する答えを見いだせないのです。「生きること」は、本来、意味・価値・理由といった尺度には収まらないのに、むりやりにそうした尺度をあてがうことで、もしかしたら「生きること」の多様性・豊穣性を極度に狭め、貧しくしてしまっているのかもしれません。
 対話の中でも、「生きる意味などない」という哲学者の言葉を紹介してくれた人がいました。それは、もしかしたら、「生きること」は「意味(有意味・無意味)」という尺度では測れない、ということなのかもしれません。では、「生きること」にあてがいうる別の尺度があるのでしょうか。それとも、「生きること」は尺度そのものを拒絶するのでしょうか。
 問いはここで止めておきます。みなさんはどう考えるでしょうか。

2019年3月12日火曜日

3月の「晤語の哲学」のご案内

3月の哲学カフェ「晤語の哲学」は以下の要領で行います。
参加ご希望の方は、右の「参加申込/問い合せ」フォームから申し込みをお願いします。

日時:3月21日(木・祝) 14時~16時
場所:島根大学 学生市民交流ハウス FLAT
   (島根大学松江キャンパス正門進んで左手)
   (以下のキャンパスマップをご参照ください。
    https://www.shimane-u.ac.jp/campus_maps/map_matsue.html)
テーマ:「生きる意味って何?」
ファシリテータ:川瀬雅也(島根大学教授)

今回は、かなり大きなテーマですが、同時に、誰でもが、普段まず考えることのない(逆に、考え始めたら、普通に生きられなくなってしまう)テーマではないでしょうか。
普段考えることのないテーマを考えてみることこそ、哲学カフェの真骨頂。
哲学カフェの真髄を存分に味わいましょう。

2019年3月2日土曜日

宣伝!

 哲学カフェ「晤語の哲学」の主催者の一人である川瀬が、このたび、新著を出版しましたので、お知らせ(宣伝)いたします。

 タイトルは、『生の現象学とは何か──ミシェル・アンリと木村敏のクロスオーバー』(法政大学出版局、2019年)です。

 一応、「生の現象学」への入門書として書きました。(「生の現象学」って何? と思われるでしょうが、そうした問いに答えるのがこの本だと思ってください。)
 とかく抽象的で、難解になりがちな哲学の議論ですが、分かりやすく叙述し、また、具体例もたくさん用いて、一般の方や学生さん(哲学以外の専門の方も含めて)でも、それなりに理解していただけるように書いたつもりです。
 ただし、単なる概説書でなく、専門の哲学研究者が読んでも、それなりに「読み応え」のあるものを書きたいと思っていましたので、そのような著書になるように努力しました。
 しかし、はたして、それが成功しているかどうかは、読者のみなさんの判断にお任せするよりありません。



法政大学出版局の紹介ページ
http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-15100-2.html


なお、ついでに、以前の著書と翻訳書も紹介させていただきます。
(ただし、こちらは、それなりに専門的な内容になっています。)

『経験のアルケオロジー──現象学と生命の哲学』(勁草書房、2010年)
勁草書房のページ
http://www.keisoshobo.co.jp/book/b245378.html

『ミシェル・アンリ──生の現象学入門」(勁草書房、2012年)
勁草書房のページ
http://www.keisoshobo.co.jp/book/b103689.html