ちなみに、「晤語(ごご)」とは「相対してうちとけて語ること」という意味です。

2019年5月19日日曜日

5月の「晤語の哲学」のご報告

 今回の哲学カフェ「晤語の哲学」は、参加者7人、主催者2人の合計9人でした。テーマは「恥って何?」。では、さっそく、どんな対話が行われたか、その一端をご紹介しましょう。
 今回の対話は、恥の感情に縛られて、身動きできなくなってしまうことがある、という指摘からはじまりました。自分に対する他者の評価を気にしたり、社会の常識に照らして自分の現状を考えたりすると、恥の感情にさいなまれてしまう、というのです。あとから考えると、他者の評価だけでなく、常識でさえ、変わりやすい相対的なものでしかないのに、そんなものに右往左往していた自分がなさけなくなると。
 しかし、他者に承認されたいという欲求は誰にでもあるものでしょう。そして、常識を気にすることだってまったく普通なことです。ならば、他者の承認や常識を意識して、それに照らして自分を振り返ったときに、恥ずかしい思いをするのは当然なことのようにも思えます。
 でも他方で、こうした恥の感情は、自分を図る基準を自己の外にばかり置いていることから生じるとも言えるでしょう。自分にプライドを持ち、評価基準を自己自身の内側に持てるなら、他者や常識に対して自己を恥じることもないように思えます。どんなときでも、「自分は自分」と思えるなら、恥など感じないのではないでしょうか。
 しかし、恥の意識を持たなくてすむというのは本当にいいことなのでしょうか。ある参加者は、恥の意識にもプラス面があると指摘してくれました。恥は、自分でも気づいていない、〈自分の状態と他者の評価や社会常識とのズレ〉を教えてくれるものであり、恥を通して、このズレに気づくことで、それを修正することが可能になると言うのです。それは、〈自分を社会に合わせる〉という場合もありますが、場合によっては、自分の恥を通して、社会の常識の異常さに気づき、〈常識をただす〉きっかけ作りになることだってあることでしょう。
 すると、恥は、一方で、人を身動きさせなくしてしまうものであると同時に、他方では、人に気づきをあたえ、人を動かす力を持つものであると言えるでしょう。どうやら恥にはこうした二面性があるらしいのです。ならば、恥が持つこの二面性は互いにどのように関係しているのでしょうか・・・。
 と、こんなふうに、疑問はつきないのですが、実際、私たちの対話も疑問に疑問を重ねるように展開し、決して答えにたどり着きはしませんが、参加者それぞれが、自分自身の恥の感情について、深く考える機会になったように思えます。

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