ちなみに、「晤語(ごご)」とは「相対してうちとけて語ること」という意味です。

2016年4月14日木曜日

中國新聞のコラム「緑地帯」の連載、明日から!

 哲学カフェ「晤語の哲学」の主催者の一人である川瀬雅也(島根大学教育学部)のコラムが、明日(4月15日)から中國新聞で連載されます。中國新聞文化欄の「緑地帯」というコラムで、「ときに哲学」というタイトルのもと、全8回の連載です。
 日常に転がっている出来事や、童謡の歌詞、童話などからちょっと哲学的に思索を広げてみたり、あるいは逆に、文学者、思想家、哲学者の言葉などをきっかけに日常の中にある哲学の芽を摘み取ってみたりする内容です。
 この「晤語の哲学」の趣旨やテーマにも沿うものだと思いますので、ご興味ある方はぜひご覧ください。
 今後、このコラムで展開したテーマを「晤語の哲学」のテーマとしても取り上げていきたいと思っています。

2016年3月25日金曜日

テーマ決定!(4月の晤語の哲学のご案内)

 次回、4月10日(日)の「晤語の哲学」のテーマを決定しました。今回はちょっとテーマの雰囲気を変えてみました。
 改めて、次回の開催についてご案内いたします。

日時:4月10日(日) 14時~16時
場所:島根大学 学生市民交流ハウス FLAT
   (島根大学松江キャンパス正門進んで左手)
テーマ:「人はなぜシェア(共有)したがるのか?」
参加費:無料
参加方法:当日、現地に集合。申し込み不要。
問い合せ先:0852-32-6284(直通) 島根大学教育学部 川瀬研究室
        kawase@edu.shimane-u.ac.jp

テーマについて:
 最近、「シェアする」という言葉が流行です。特に、ネットの利用が一般的になってきて、多くの人で言葉や写真などを共有できるSNSが普及したことで、世代を問わず、みんながシェアに夢中です。なぜ、人はシェアしたがるのでしょうか?
 とりあえず原因と目的を考えることができるでしょう。もし、かつては人々がシェアに関心を持っていなかったというのなら、なぜシェアが望まれるようになったのか、と考えることができるでしょう。時代の変化でしょうか、心の変化でしょうか? 逆に、昔から人々はシェアを望んでいたというのなら、シェアすることは、何か〈人間の本質〉に関わることなのかもしれません。
 目的の方はどうでしょうか。人は何のためにシェアするのでしょうか。シェアしない状態から、シェアする(できる)状態に変わることで、人は何を得られるのでしょうか? 逆に、シェアできる状態からシェアできない状態に変わることで、人は何を失うのでしょうか? でも、そもそも「シェアする」ことは「手段」なのでしょうか? むしろ、「シェアする」こと自体が「目的」だということはないでしょうか? 人は、シェアするために、いろいろな手段を整えているのかもしれません。
 もちろん、シェアはネットでの情報のやり取りだけではありません。パブリック・ヴューイングなどというのも流行ですが、これも、例えば日本代表の試合をみんなで一緒に観て「感動」をシェアしたい人が多いから流行るのでしょう。ちょっと前は、映画を観ながら観客みんなで「歌う」なんていうことが流行ったりもしました。これも「シェア」の一種でしょうか。
 このように、私たちの身の回りのいろいろなところに「シェア」があるようですが、いったい、みんななんでこんなに「シェア」したがるのでしょうか?

2016年3月11日金曜日

4月の開催日について

 3月は「裏切りって何?」がテーマでした。愛憎入り乱れた白熱の議論になるか、とハラハラしてましたが、みなさん、裏切りを「裏切り」とも思わないような、寛容で優しい方たちで、罵声が飛び交うこともなく、穏便に対話がすすみ、安心しました。
 それはともかく、ファシリテータの力量不足もあるのでしょうが、今回はテーマとしてなかなか難しかったですね。「裏切り」という言葉に対する世代ごとの固定イメージの違いのようなものもあったのかもしれません。しかし、そうしたイメージの違いがあるということも、「裏切り」をテーマにしたからこそ浮かび上がったことだと言えるでしょう。

 さて、4月の哲学カフェ「晤語の哲学」の開催日をお知らせしておきます。テーマについては、また後日お知らせします。

日時:4月10日(日) 14時~16時
場所:島根大学 学生市民交流ハウス FLAT
   (島根大学松江キャンパス正門進んで左手)

次回は日曜日開催です。お間違えのないように。

2016年2月19日金曜日

テーマ決定!(3月の晤語の哲学のご案内)

 次回、3月5日(土)の「晤語の哲学」のテーマを決定しました。改めて、次回の開催についてご案内いたします。

日時:3月5日(土) 14時~16時
場所:島根大学 学生市民交流ハウス FLAT
   (島根大学松江キャンパス正門進んで左手)
テーマ:「裏切りって何?」
参加費:無料
参加方法:当日、現地に集合。申し込み不要。
問い合せ先:0852-32-6284(直通) 島根大学教育学部 川瀬研究室
        kawase@edu.shimane-u.ac.jp

テーマについて:
 「裏切り」はちょっと微妙なテーマのような気がします。そもそも、「裏切り」は「良い」ことなのでしょうか? 「悪い」ことなのでしょうか? それは一般的には良いことだとは思えませんが、しかし、だからといって悪いことだとも言い切れません。例えば、内部告発によって、社会の安全が保てるなら、自分の会社を「裏切って」告発したほうが「良い」ということもあるでしょう。では、「裏切り」は、どんなときに「良い」ことで、どんなときに「悪い」ことなのでしょうか。
 また、そもそもある同じ行為が、場合によって「裏切り」とされたり、されなかったりします。例えば、「部活をやめること」や「親の指示に従わないこと」など。こうした判断の違いの背景には何があるのでしょうか? また、「部活をやめること」や「親の指示に従わないこと」が「裏切り」だとされる場合、それはいったい「何を」裏切っているのでしょか? さらに、ある行為を「裏切り」だとする人は、そう言うことで何を望んでいるのでしょうか?
 また、「裏切り」に敏感な社会と、そうでない社会というのもあるような気がします。日本の社会、あるいは、日本人の精神性は、比較的「裏切り」に敏感なような気もします。個人主義の社会よりも、〈和〉を尊重する社会の方が「裏切り」に敏感なのでしょうか? 誰かを「裏切り者」とすることで、社会は何を実現しようとしているのでしょうか?
 今回は、「裏切り」という言葉をめぐって、私たちの心や社会のあり方に深くメスを入れてみたいと思います。


新聞にインタビュー記事が掲載されました。

 今年1月の「晤語の哲学」の際に、中國新聞から取材を受けましたが、そのときのインタビューの記事が、2月13日(土)の中國新聞に掲載されました。著作権の関係がありますので、ここでは紙面を紹介できませんが、ご興味のある方は、図書館等に行かれたときに、ご確認いただければと思います。
 ちなみに、記事は、「人文学の挑戦」というタイトルで、山口や岡山での哲学カフェの紹介と、川瀬のインタビュー記事で構成されています。インタビューでは、人文学や哲学カフェの意義について語っています。

2016年2月12日金曜日

3月の開催日について

 前回、2月7日は「自由」というテーマでしたが、単純なようでいて、難しかったですね。シンプルなだけに、いろいろな捉え方ができて、話し合いの食い違いも多かったように感じました。でも、「自由」というシンプルなテーマがそれだけ多様な側面と深さを持っているということ自体、「自由」についてじっくりと考えてみたからこそ、分かったことだと言えるでしょう。
 さて、3月は以下の日程で開催します。まだ、テーマは決めていませんが、決まり次第、改めてご連絡します。3月は土曜日開催です。


日時:3月5日(土) 14時~16時
場所:島根大学 学生市民交流ハウス FLAT
   (島根大学松江キャンパス正門進んで左手)

2016年1月27日水曜日

2月の「晤語の哲学」のご案内

 前回の「晤語の哲学」は、予想されたほど天気も荒れず、無事に、楽しく開催することができました。参加者も多く、楽しい中にも、真剣なムードで、あっと言う間の二時間でした。
 今回は中国新聞社と島根大学学生プレス研究会から、「人文学のあり方」というテーマをめぐって、取材を受けました。それぞれどんな記事に仕上がるのか、楽しみです。記事になったら、また、このブログで紹介することにいたします。

 さて、2月の「晤語の哲学」のテーマを決めました。日程等も含め、再度、ご案内いたします。次回は日曜開催ですので、お間違えのないように。


日時:2月7日(日) 14時~16時
場所:島根大学 学生市民交流ハウス FLAT
   (島根大学松江キャンパス正門進んで左手)
テーマ:「自由って何?」
参加費:無料
参加方法:当日、現地に集合。申し込み不要。
問い合せ先:0852-32-6284(直通) 島根大学教育学部 川瀬研究室
        kawase@edu.shimane-u.ac.jp

テーマについて:
 今回のテーマは「自由」。あえてオーソドックスなテーマに挑戦です。
 基本的に、「自由」が問題になりうるのは、私たちの行動が社会(多くの他者)に関わるからだと言えるでしょう。本当に誰にも迷惑をかけない行為なら、誰でもが自由に行えるはずです。でも、「社会」というのは、同じ時間を過ごしている人たちばかりを指すのではありません。社会には歴史があり、伝統があります。そこから、私たちは、他者に対する迷惑とは関係なく、過去から伝わる伝統に則った行為を強いられますし、それに背くことに抵抗感を感じます。つまり、私たちの行為は、社会、他者、過去などに縛られていると言えるでしょう。
 ならば、心の内面についてはどうでしょうか。外に対して行動するのではなく、心の中で何かを思っているだけなら、社会や他者に迷惑をかけることはありませんし、伝統に背くこともありません。でも、本当に、私たちは「内面の自由」を維持することができるのでしょうか。しばしば私たちの〈好み〉は外からの影響によって変わります。誰でもが、みんなが「好き」と言うものを自然と「好き」になってしまっているように思います。私たちは、自分の心の内面においてさえ、必ずしも自由ではないのかもしれません。
 では、こんなに制限だらけの私たちにとって、「自由」とは何を意味しているのでしょうか。私たちの「自由」はいったいどこにあるのでしょうか。