ちなみに、「晤語(ごご)」とは「相対してうちとけて語ること」という意味です。

2018年12月23日日曜日

12月の「晤語の哲学」のご報告

 今回は、初参加の方にたくさん来ていただき、参加者18名、主催者2名、全部で20名の参加でした。いつもよりもテーブルを一つ多く出して、なんとか対応しました。
 さて、今回のテーマは「生きがいって何?」。どんな対話が繰り広げられたのか、その一端を紹介しましょう。
 まず、参加者から多く出されたのは、「生きがい」を人生の「目標」や「自己実現」と結びつける意見でした。つまり、目標の実現をめざすことが「生きがい」になるというものです。これは「生きがい」を「未来」に結びつけて理解する立場だと言えるでしょう。
 いっぽう、フロムという思想家を引き合いに出して、生きることの意味は、生きることそのものうちにあるという考え方を紹介してくれた参加者がいました。この考え方は「生きがい」を、いま生きている「現在」のうちにみる見方だと言えるかもしれません。
 すると、「過去」に生きがいを求めるということも想定されます。それは、もしかしたら、現在や未来に充実感や希望を持てない人の場合なのかもしれません。
 逆に、未来に生きがいを持てる人というのは、過去や現在が充実し、安定している人だと考えることもできそうです(そうした意見を出してくれた参加者がいました)。
 ただ、体の不自由なお年寄りのなかには、実際には行けるわけのない旅行について空想することを生きる支えにしている人もいるという体験談が紹介され、こうした例は、先の時間軸のなかにうまく組み入れることができませんでした。この例は、「生きがい」についてより深く考えるきっかけを与えてくれるものになりそうです。
 対話の後半は、今の世の中、私たちは「生きがい」を持つように社会から煽られているのではないか、という意見について検討しました(例えば、人生100年時代ということから、健康で生きがいのある人生を送ることが声高に推奨される、など)。これには多くの参加者が同意し、なおかつ、それを好ましくないと思っているようでしたので、なぜ私たちは、「生きがいを持つように煽られること」に憤るのか? ということについて考えてみました。
 出された意見は、本来「生きがい」というのは内発的・主体的なもの、つまり、他との比較でなく、個人に固有なものであるのに、社会一般の価値観に沿った「生きがい」を持つように促されることに違和感を感じるから、というものでした。
 しかし、生きがいが個人に固有だとしても、同時に、個人が生きがいを持つためには社会が必要だという側面もありそうです。実際、多くの人が、社会的役割や他者に必要とされること、あるいは、他者の幸福に貢献できることを、「自分の」幸福、「自分の」生きがいだと感じているように思われます。
 今回は、このように、「生きがい」というテーマを通して、私の固有性、他者関係、個人と社会、人生の時間構造など、広く豊かな問題への多くの示唆を得ることができました。
 (なお、今回のまとめも、参加者の実際の対話に、ファシリテータによる「若干の脚色」が加わっていることをお断りしておきます。)

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